寿太鼓について
寿太鼓の由来
寿太鼓の歴史は遠く藤堂高虎公の今治城築城の時代に遡ります。宇和島、大洲の領主であった高虎公は、関ヶ原の戦いで東軍に味方し、その戦功に対して今張を加封されました。それまでこの地方は古くより今張の字が使われていましたが、高虎公の領有地となってから、今から立派な土地を開き治めるという決意をこめて今治と書かれるようになりました。今治城の普請奉行は高虎公の妹婿の父渡辺勘兵衛でしたが、土木監督として活躍した人が木山六之丞であります。彼は非常に有能な人物で、築城のみならず芸能にも優れた才能を持っていました。今も今治地方の盆踊り歌として残っている木山音頭の作詞作曲者、踊りの振り付け者でもあります。この木山音頭は築城作業にはげみをつけるためにつくられたと伝えられています。又、「今張」から「今治」への願いをこめて、築城の先ぶれ太鼓として格調高く打ち鳴らされたのが寿太鼓であります。
今治寿太鼓保存会について
寿太鼓は約400年前、今治城築城の際、先ぶれ太鼓として大工の士気を高めようと格調高く打ち鳴らされたのが、その起源とされています。以来、途絶えていたこの寿太鼓を郷土の地域文化を掘り起こし、今治市の活性化を図り、それを育てていくために復活させようと当時の商工会議所会頭神村 清氏・菅 野津太郎氏のもと関係各位、諸先輩方のご尽力により、今治青年会議所有志によって昭和48年に活動を開始、翌49年に愛媛県下で最初の和太鼓集団として正式に発足しました。
代表曲『寿太鼓春駒』は、故菅 野津太郎氏の指導により今に受け継がれています。全員の呼吸を整え、意気を合わせて打ちならす格調高い響きは四季の移ろいと日本の心を表現しています。
2024年度 今治寿太鼓保存会 役員
会長 | 檜垣 幸人 |
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副会長 | 本宮 光朗 近藤 郁二 吉本 悠太郎 |
顧問 | 徳永 繁樹 田窪 大朗 藤 豊文 村上 明弘 矢野 暢生 山本 敏明 |
監事 | 重松 信吾 神尾 和弘 |
小倉流寿太鼓伝承者 二代目 小倉鷲峯 |
大澤 哲朗 |
幹事長 | 大澤 広基 |
副幹事長 | 樫田 仁志 |
会計幹事 | 越智 舜介 |
敬称略
今治寿太鼓保存会 歴代幹事長
初代 | 井上 国勝 | 2代 | 岡本 孝 | 3代 | 伊藤 義和 | 4代 | 大沢 哲朗 |
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5代 | 故)山岡 文明 | 6代 | 門田 幸二 | 7代 | 高野 充吉 | 8代 | 故)黒川 廣司 |
9代 | 吉永 邦彦 | 10代 | 宮木 均 | 11代 | 故)小池 君男 | 12代 | 故)長尾 久 |
13代 | 故)西原 透 | 14代 | 大沢 悦夫 | 15代 | 玉置 重雄 | 16代 | 故)菅 鉄文 |
17代 | 本宮 光朗 | 18代 | 重松 信吾 | 19代 | 村上 昇司 | 20代 | 神尾 和弘 |
21代 | 井上 啓二 | 22代 | 二宮 芳雄 | 23代 | 池田 直樹 | 24代 | 田中 健司 |
25代 | 近藤 正人 | 26代 | 鴨川 靖弘 | 27代 | 武智 一浩 | 28代 | 越智 誠文 |
29代 | 木村 真宰 | 30代 | 山本 剛 | 31代 | 藤山 太志 | 32代 | 森本 真博 |
33代 | 越智 俊 | 34代 | 木村 隆仁 | 35代 | 平田 哲也 | 36代 | 井出 敏博 |
37代 | 佐川 基和 | 38代 | 丹下 亮 | 39代 | 矢野 宏明 | 40代 | 近藤 省吾 |
41代 | 松田 泰幸 | 42代 | 廣川 怜史 | 43代 | 檜垣 友佑 | 44代 | 武田 繁親 |
45代 | 阿曽 淳也 | 46代 | 黒瀬 太樹 | 47代 | 塩見 仁士 | 48代 | 玉井 宏 |
49代 | 樫田 仁志 | 50代 | 村上 艦 | 51代 | 大澤 広基 |